ニーチェに学ぶ「運命愛」
ドイツの哲学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844年~1900年)は、著書「曙光」で次のように語っている。
「人間と物。なぜ人間は物を見ないのか?彼自身が妨害になっている。彼が物を蔽っている」
ここで、概念と観念という分類がされている。
- 概念→世間一般的な共通認識
- 観念→個人の主観的な考え方
ニーチェが言う「物」とは、物質的なものだけでなく、事象、現象のことであり、それには死も含まれているという。
僕ら人間は、概念や観念というフィルターを通して物を見ており、それらが妨害になっていると指摘している。
何の妨害か。
物事や事象を正確に事実に基づいて見るための妨害だ。
例えば、死について言えば、多くの人が「人生の終焉」「死は悲しい」などと考えがちだが、果たして、それが正確な事実かどうかである。
そもそも、年齢が若ければ若いほど、死について真剣に考えること自体ないと思う。
そこで、ニーチェはどう考えたかというと、「運命愛」という言葉が出てくる。
ニーチェは、言葉を借りれば、「人生に起きることは必然としてあるいは運命として引き受けることだ」などと表現している。
僕は、現在、37歳だが死について考えることがよくある。なぜなら、アルコール依存症であり、これまでに大量飲酒して体を壊してきており、不安があるからだ。
しかし、ニーチェに言わせてみれば、「運命愛」の境地として死をも愛するというのである。
おそらく、ほとんどの人が死を愛するという境地に立てないと思う。
ニーチェはまた、思い通りにならない人生を他人のせいにしたり、環境のせいにするというニヒリズムという思想についても語っている。
こういったニヒリズムの思想を越えることを「超人思想」「自己超克性」といい、ニーチェが超人と言われている所以なのではないかと思う。
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